日本版画会会員
いわき美術協会副会長
日本版画会審査委員

坂本勇先生作

海雲山慈眼院高蔵寺(真言宗智山派)の歴史

 日本において仏教文化が美しく華やかに咲き競った奈良時代の後期から平安時代の前期にかけて偉大な宗教者であり卓越せる精進的指導者として今日まで広くその名が知られている方が二人おられます。一人は真言宗を開かれ、高野山に金剛峰寺を建立された弘法大師空海様であり、もう一人は天台宗を開かれ、比叡山に延暦寺を建立された伝教大師最澄様であります。 このお二人の数々の行跡は歴史の教科書にも記述され現代まで伝承され、深く信仰を集めております。

 しかし、このお二人の陰にかくれ、あまり知られてはおりませんが、もう一人偉大な指導者がおりました。釈徳一(しゃくとくいち)という方であります。徳一様は奈良の興福寺で修行され、当時秀才中の秀才といわれた最澄様と宗教上の問題で互角に論争し、空海様からも大兄という尊称をもって手紙等を頂いているところから考えますと、相当な人物であったと思われます。

 徳一様は東国や東北地方の人々に仏教を説き広めたいと志を立て、まず筑波山(茨城県の代表的な山)を開き、更には船で小名浜(福島県いわき市)に上陸、いわき各地にお寺を建立されました。 まさに大同2年(807年)の事であります。

 大同2年という年は福島県にとりまして大変な年でありました。民謡でも有名なあの会津磐梯山をはじめ、吾妻小富士等の山々が

噴火を繰り返し、高く舞い上がった火山灰が遠くいわき地方にも降り注ぎ、農作物が枯れ,加えて疫病蔓延してさながら地獄の様相であったと、この地方の古い歴史書である岩城地誌に記されております。
 徳一様はこの惨状を憐れみ人々に生きる勇気を与えんと海雲山の南麓(現在の三重之塔及び観音堂付近)を選び,ここを聖地と定め仮堂を作り、七体の観音様を刻み、当地方の要所に安置し、天災地変の熄滅と悪病の退散を祈願したところ、猛威を振るった災禍も治まり、人々安堵して以前の穏やかな平和な暮らしに戻ることができたといわれております。

 ちなみに七箇所に安置された観音様は高倉観音、法田観音,佛具観音,富沢観音,出蔵観音、関田観音、鮫川観音で菊多七観音と呼称されております。

これが高蔵寺の起源と考えております。

 以来 高蔵寺の千手観音様は、名僧徳一様が諸人の苦しみを救わんと心を込めて刻した有り難い尊像と評判となり広く尊信され参拝されるようになりました。

應永年間(1394年~1427年)には石川の城主源持光公、植田城主藤原隆広公が協力して堂塔を建立、あるいは再修し、永正15年(1518年)に宗永法師が岩城33観音霊場を撰する祭には第6番札所として定められました。
 又、慶安2年(1649年)には徳川三代将軍家光公より30石の御朱印地を拝領致しております。

 高蔵寺は長い歴史の流れの中で多くの方々より温かい支援を受け、信仰の地として、心の安らぎの地として地域の人々に親しま

れ、時には寺子屋を開設し当地の文化教育の向上に些かなりとも貢献して参りましたが,惜しむらく明治25年1月25日火災により本堂を焼失、その後、仮本堂のままで参りましたが、焼失より100年目の平成2年に再建を発願、檀信徒の皆様の御協力により平成7年7月に本堂客殿が完成いたしました。平成7年11月10日の善き日を選び落慶の典儀を厳修し現在に至っております。

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